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新選組topへ
(北海道函館市付近)
局長・近藤勇に代わり新選組を率いた副長・土方歳三。罪人として処刑された近藤、病床で永眠した沖田が果たせなかった武士らしい最期の舞台を求め、ついに最果ての地・蝦夷地へ向かう。彼が辿り着いた最期の舞台とは―? 五稜郭
弁天台場跡
土方歳三最期之地跡
   
 
  多摩で生まれ、京の町で名を馳せた剣士、ついに最果ての大地へ。
 
板橋で処刑された局長・近藤勇に代わって新選組を率いた副長・土方歳三は、宇都宮・会津と、転戦しながら北へ向かった。途中、会津では新選組の生みの親とも呼べる藩主・松平容保を最期まで守り抜くと主張する京都からの戦友・斉藤一と別れ、さらに北を目指す。多摩で生まれ育ち、江戸で剣術を磨き、京都で名を馳せたこの男は、仙台を経て最果ての地・蝦夷へ。榎本武揚を中心に誕生した蝦夷共和国では、士官以上の者による投票により陸軍奉行並という高官に就いた。多摩の百姓の子として生まれた彼は、その人望により、ついに旧幕府陸軍全軍を統率するほどの立場になったのである。
箱館政府が本拠地としたのは、五稜郭。幕府が北辺防備の拠点として築いた我が国初の本格的様式城郭である。美しい星形の城として知られる五稜郭だが、この形にはこんな理由がある。砲撃戦になった際、城郭本体から張り出した稜堡は互いに援護射撃をすることができ、死角をなくすことができる。五稜郭の着工は1857年というから、設計者の武田斐三郎は、剣術集団・浪士組の結成よりも前にすでに近代の戦争は砲撃戦が中心になるということを想定していたことになる。
五稜郭
住所 北海道函館市五稜郭町44
交通 函館市電「五稜郭公園前」から徒歩12分

 
  雪が溶ける頃、武士の世が終わりを告げる。あの男でさえも、そう悟っていた。
 
旧幕府軍が蝦夷へ上陸し、箱館共和国を樹立したのは1868年の10月。北の大地には、すでに冬が到来していた。春になり、雪が溶ければ、新政府軍が侵略してくる、それは誰の目にも明らかであった。
翌年4月、土方歳三は箱館の北の要所・二股陣地にいた。3倍以上の兵力を持つ敵軍に対して、土方は一歩も譲らない。自ら銃を取り、数え切れない数の敵兵を倒した。かつては刀を取って京の町を駆け抜けていた新選組副長が、今では近代戦の名将となっていた。
しかし、善戦する二股口の戦況をよそに、箱館から撤退命令が下された。新政府軍の勢いに押され、土方の守るこの陣地以外は、全て惨敗してしまっていたのである。五稜郭に戻った土方は、いよいよ旧幕府軍の終焉が近づいていることを悟った。
5月7日には、箱館湾で激しい海戦が繰り広げられていた。すでに旧幕府軍は、先に行われた江差での戦いの最中、激しい波風により開陽丸という主力軍艦を失っていた。さらに、新政府軍の甲鉄という強力な軍艦の奪取作戦にも失敗していた。幕府軍には、もはや海で勝負できるだけの戦力がない。それでも、必死に軍艦・回天や弁天台場の砲台から新政府軍を迎え撃つ。このとき、弁天台場を守っていた兵士の多くが新選組である。奮戦むなしく、箱館湾海戦は旧幕府軍が破れ、土方がいる五稜郭と弁天台場の間のルートが寸断されてしまった。
弁天台場跡
住所 北海道函館市入舟町8
交通 函館市電「函館どっく前」から徒歩1分

    
  「ここしかない」、自らの美学を貫いた男が選んだ最期の地。
 
「いよいよだ」。自軍の戦況不利を知り、総裁・榎本武揚をはじめ、箱館政府の閣僚たちが籠城を訴える中、最も戦い慣れしているはずの土方だけが、「行く」と言う。箱館を奪還して、弁天台場にいる兵士たちの救出に向かうと言うのである。いくら新選組副長の土方歳三とはいえ、兵力の差は否めない。どう考えても、勝機はない。それでも土方はたった50人の兵士を従えて、出陣した。
途中、一本木関門の手前に連れてきた兵を残し、彼は駆けた。新選組のもとへ。多摩の田舎でぼんやりと過ごしてきた自分が、ここまで夢中になって華やかな人生を送ることができたのは、他でもない「武士になる」という夢のおかげ。その夢を実現するために欠かすことのできなかった新選組。先に逝った近藤や沖田、山南たちのためにも、新選組の最期は華やかでなければならない。そのためには、自分が行ってやらなければ。
「死に場所は、ここしかない」。馬の腹を蹴って駆け出した土方は、驚愕する敵兵を相手に存分に暴れまわった後、1発の銃弾によって、ようやくその動きを止めた。近藤、沖田がこの世を去って1年後、1968年5月11日のことだ。彼は自らの死をもって、誠の道に生きる武士の世の終わりを告げた。
土方歳三最期之地
住所 北海道函館市若松町33-6
交通 JR線「函館駅」から徒歩15分

    
   
北海道の冬の到来は早い。取材をしたのは11月中旬。多摩では、ようやく紅葉が見頃を迎えようかという頃、函館ではすでに吐く息も白く、マフラー、手袋の他にニット帽や耳当てが必要なくらいだった。この極寒の地で、最後の年明けを過ごした土方歳三の胸には、多摩のふるさとへの懐かしい思いが募っていたことだろう。
ふるさとから遠く離れたこの函館でも、土方は人望を集めている。土方歳三最期之地碑には、写真でもお分かりいただける通り、たくさんの花が添えられている。よくお墓などでは、古くなってしまって枯れている花を見かけるのだが、ここの花はどれも新鮮。そのわけは、すぐに分かった。ちょうど、私がお線香をあげているところへ地元の女性の方が現われて、古くなって元気がなくなってしまった花を片付け、代わりに新しく持ってこられた花を、きれいに花瓶へ移し変えていく。大河ドラマの影響もあって、全国からたくさんの方々がいらっしゃるそうだが、そんな方が持ってこられるお花やお供え物を、この女性が毎日取り替えているのだそうだ。この場所のほかにも、称名寺というお寺では、地元の名士が建てたという供養碑がある。多摩が生んだ英雄は、ここ函館でも愛されていた。
取材・文/こぐま
 

 

 
 
 
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