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新選組topへ
(東京都千代田区・板橋区・港区付近)
勢いを増す新政府軍の前に、旧幕府側は苦渋の表情。江戸の町を戦火から守るため、旧幕府海軍奉行・勝海舟は、ある決断をする。そのとき近藤勇は、土方歳三は、沖田総司は・・・? 江戸城址
近藤勇墓所・寿徳寺境外墓地
沖田総司墓所・専称寺
   
 
  せめて、多摩だけは自分たちの力で守りたかった・・・。
江戸無血開城と幕府の瓦解。
 
甲州勝沼の戦いに勝利した新政府軍は、勢いを増して江戸を目指す。もはや、江戸が戦火にさらされるのは時間の問題。誰もがそう思っていた。江戸が攻められれば、当然、その前線にある多摩の村々も、新政府軍による攻撃を受けることになる。近藤や土方の頭の中には、「甲州では敗北したが、せめて多摩の人々だけは守り抜きたい」―そんな強い思いもあったのではないだろうか。
徳川家康の江戸開府以来、一度も戦火にさらされたことのない大都市・江戸。この町を救ったのは、勝海舟・西郷隆盛という2人の男だった。江戸・芝にある薩摩藩邸を訪れた勝は、3日間の交渉の末、江戸城を明け渡す代わりに、江戸の町を戦火から救うことに成功。これが、世に言う「江戸無血開城」である。
これに先だって徳川慶喜は、徳川家が朝敵とみなされることを避けるため、新政府への恭順の意を示すため、上野・寛永寺に謹慎。新選組は、甲州への出陣前の一時、その警護にあたっていた。
近藤や土方たちの剣の力によってではないものの、結果的に多摩の人々も戦火から免れることができた。
  
江戸城址
住所 千代田区千代田1
交通 地下鉄「二重橋前駅」から徒歩5分
 
  「もはや、これまで―」。
武士よりも武士らしく生きた男の最期とは?
 
甲州勝沼の戦いに敗れ江戸に戻った新選組は、1868年4月1日、下総流山へ移動。このとき、隊士は227名。近藤は酒造・長岡家屋敷を本陣とする。
4月3日、隊士たちが野外訓練を行なっていると、不意に官軍が来襲。近藤は、抵抗することもなく薩摩藩の有馬藤太に捕縛される。「もはや、これまで―」、近藤は切腹する覚悟を決めていた。土方がなだめる。まだ、新選組局長・近藤勇だとは気付かれていない。「旧幕臣・大久保大和」と言って通せば、許されるはずだ。そう言って聞かせた。土方の中では、まだまだ薩長との戦いは終わっていない。局長の近藤と自分がいる限り、新選組は何度でも甦る、そう確信していたからだ。
捕虜となった近藤は、流山から越谷へ、ついで4月4日には板橋の新政府軍本営に連行された。まだ、素性は知られていない。この日、土方は近藤救出を求めて勝海舟に面会しているが、思うような結論を得られぬまま、時間ばかりが過ぎていく。やがて、旧幕府軍とともに、新選組は宇都宮へ。宇都宮城の攻防の間も、近藤のことが頭から離れなかったであろう。
加納道之助。彼は、伊東甲子太郎一派の残党で、かつては新選組伍長を務めた人物である。その男が、近藤の最期を決定付けた。新政府軍に参加していた彼が、偶然にも板橋本営にいたのである。捕虜となっている大久保大和の顔をみるや、すぐに新選組局長と気付き、ここに近藤勇の武運が尽きた。4月25日のことである。
「武士よりも武士らしく」。そう願った男の最期は、斬首。切腹することすら許されなかったのである。焼酎づけにされたこの男の首は、かつて名を馳せた京・三条河原にさらされる。
   
近藤勇墓所・寿徳寺境外墓地
住所 東京都北区滝野川7-8-1
交通 JR線「板橋駅」から徒歩1分


    
  都会の喧騒のなか、静かに眠る天才剣士。
刀の道に生きた若者は、病によってこの世を去る。
 
近藤の死から約1ヶ月後の1868年5月30日。ともに京へ上り、天然理心流で鍛え上げた腕をふるった若者が、また一人この世を去る。新選組一番隊隊長・沖田総司である。生誕になぞの多い天才剣士は、その没年齢も諸説が多い。25歳、26歳、27歳くらいであっただろうと言われる。
剣の道一筋に生きた若者は、労咳(結核)に侵され、その晩年を床で過ごしていた。池田屋事件で吐血して以来、日に日に体は虫食まれていき、江戸に戻ってからは近藤や土方たちとともに行動することも叶わず、松本良順の治療を受けていた。江戸が無血開城されなかったら、彼は薩長軍によって首を取られていたかもしれない。しかし、床に伏せていた彼は、城が明け渡されたことなど、知っていたかどうか。近藤勇の死についてはどうか―。
沖田総司の墓は、六本木ヒルズに見下ろされる専称寺にある。寺の過去帳には、義理の兄にあたる沖田林太郎の「次男」と記されており、また墓石には幼名で「沖田宗治郎」と刻まれている。新政府軍からの追及を避けるためだろう。


※現在、沖田総司墓地は非公開です。
     
沖田総司墓所・専称寺
住所 港区元麻布3-1-37
交通 地下鉄「六本木駅」から徒歩8分
    
   
鳥羽・伏見の戦い、甲州勝沼の戦いに敗れた新選組。再起を図ろう思っていた矢先に、度重なる不運が彼らを襲った。江戸無血開城、局長の捕縛と処刑、そして「エース」とも呼べる沖田総司の病死。さすがの土方歳三にも、このトリプルパンチは堪えただろう。「もはや、これまで―」。並みの武将ならば、そう思ったはずだ。しかし、彼は違った。自らの死に場所を求めて、北へ。
次回は多摩が生んだ、もう一人の英雄・新選組副長の最期の戦いを追って、最果ての大地へ。
取材・文/こぐま

         
 
 
 
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