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「都市住宅技術研究所」〜〜集合住宅歴史館〜〜 |
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「都市住宅技術研究所」は独立行政法人都市再生機構の研究施設で八高線の北八王子駅から徒歩10分程度のところに2.6haもの敷地を有する研究所だ。高さ100mの紅白に塗られた超高層住宅実験タワーは駅前からも臨むことができ、施設のランドマークとなっている。研究所内には住まいに関する様々な研究を行う施設が16もあり、そのうちの6施設が一般に公開されている。今回はその中の集合住宅歴史館を紹介したい。
都市再生機構(旧都市基盤整備公団、旧日本住宅公団)は数多くの集合住宅を手がけているが、多摩方面では多摩ニュータウンや日野市にある多摩平団地が有名である。
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集合住宅歴史館(写真右上)には現在は建て替えられてしまった集合住宅のうち、歴史的に貴重な4つの建物の一部が移築復元されている。当時使われていた一般的な家具なども一緒に展示されているので、間取りだけでなく、その時代ごとの生活も追体験できるようになっている体験型の展示施設だ。我々がよく耳にする「団地」のルーツが公開展示されているとイメージしてもらえれば解りやすいだろう。 |
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【1】代官山アパート:昭和2(1927)年竣工(同潤会) |
このアパートは同潤会による鉄筋コンクリート造の低層集合住宅だ。約6000坪の敷地内に2〜3階建ての共同住宅が36棟、337戸を有する大規模な集合住宅だった。家族用と独身者用の2タイプの世帯に対応し、敷地の中には居住空間だけでなく、食堂や集会場、浴場など共用施設が充実していたところにも特徴がある。
「同潤会」は日本で最初の公的な住宅供給機関で、関東大震災の復興を目的に大正13年に創設された。中流向けの住宅供給を目指して計画されたが、実際は中の上以上の若いエリート層が多く入居していたようである。代官山の他に江戸川アパートや大塚アパートなどがあり、渋谷の表参道沿いにあった青山アパートは再開発の建築家が安藤忠雄であることや、建て替え時に解体を惜しむ様々なイベントが行われたことでも記憶に新しい。
「アパート」と言うと木造2階建ての低家賃住居をイメージしてしまうが、昭和初期の同潤会アパートは現在で言うところのマンションのような集合住宅だった。現存する現役の同潤会アパートとしては台東区の上野下アパートと荒川区の三ノ輪アパートがある。

展示では独身用と家族用の2タイプの住居が復元されている。玄関を入ってまず気になるのが、内開きの玄関ドアだ。現在の日本の玄関ドアは靴脱ぎの習慣から外開きが一般的である。ちなみに、世界スタンダードはドアの防犯上の観点から内開きとなっている。住居の内部は造り付けの棚や収納ベッドなどが程良くこしらえてあり、6帖一間の独身部屋でも無駄な家具さえ置かなければ十分の広さだ(写真左上)。世帯用の個室には吊り床(床の間の一種:写真右下)がある。狭いながらも装飾空間を用意してあることを考えると、床の間を楽しめる余裕のある入居層を当初から想定していたことが読みとれる。
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【2】蓮根団地:昭和32(1957)年竣工(日本住宅公団) |
昭和30(1955)年に設立された日本住宅公団の中層集合住宅。戦後の都市部の住宅不足を解消するために1950年代前半に住宅金融公庫法、公営住宅法、日本住宅公団法が制定され、「公営、公団、公庫」という戦後の住宅政策の三本柱が確立する。公営住宅は国家補助による低家賃住宅を、住宅金融公庫は中流以上の持ち家政策として、そして日本住宅公団は両者の中間層の勤労者のための住宅供給を目的としていた。
またこの時期に集合住宅の間取りを決める大きな変化があった。「食寝分離(食べる場所と寝る場所の区別)」、「就寝分離(生活する場所と寝る場所を区別する)」という明確なコンセプトに基づいた、公営住宅標準設計の51C型として提案されたのである。51C型によりDK(台所と椅子座の食堂が合体した、ダイニングキッチン)という部屋が提案され、DKと2つの個室を持つ間取りは2DKと称された。日本の住宅における「nDK」(nは個室の数を示す)というスタイルがここに誕生した。

蓮根団地は2DK55型と呼ばれ、間取りは二部屋の和室(写真右下)と板の間のダイニングキッチン(写真左上)の2DKで専用の浴室も付いていた。さらに南側の掃き出し窓の外にはバルコニーも用意され、現在の団地の基本形をここに見ることができる。壁には床の間や飾り棚のような装飾的要素は一切無く、機能重視の造りとなっている。同潤会と日本住宅公団の設計コンセプトの違いが内部にも現れている。玄関扉が現在と同じ外開きとなっていることにも注目したい。
日本の住宅の出入り口は内外部とも引き戸が使われていたが、生活の洋風化の中で引き戸がドアに代わっていく。玄関はその中でもドア化が早い時期から起こった場所だが、初期の玄関は代官山アパートのように内開きであった。戦前にも外開きの玄関扉を持つ住宅はあったが、現在のように外開きが主流になるのは戦後になってからである。「nDK」の間取り同様、公団の影響が大きいと言えるだろう。
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【3】晴海高層アパート:昭和33(1958)年竣工(日本住宅公団+前川國男) |
前川國男は日本を代表する建築家の一人で、フランスの建築家ル・コルビジェ(日本では国立西洋美術館本館を設計している)の元で修行を積んだ。晴海高層アパートにも構造と外観にコルビジェの影響が色濃く出ており、同じ時期に建てられた他の公団の建物とはひと味違う造りとなっている。
間取りは板の間のダイニングキッチンと二部屋の和室の2DKと言うこともできるが、そう呼ばせない洗練された設計で、単に和室がとなり合わせになっているのではなく、「続き間」としても使えるような配置となっている。障子と窓台が一体となった造作建具やガラス張りの欄間など、細部まで設計が行き届いており、これぞまさにデザイナーズマンションの先駆けと呼ぶのに相応しい集合住宅と言える。(写真は玄関から台所を見た図である。右側に和室の続き間が見える)
ちなみに6階〜14階程度の建物が一般的に高層住棟と呼ばれ、それ以上は超高層住棟となる。6階建て以上の建物ではエレベーター設置の義務があり、団地で5階建てが多いのは設備費用のかさむエレベーターの設置をしなくてもよい最大の階数だからである。
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【4】多摩平団地テラスハウス:昭和33(1958)年竣工(日本住宅公団) |
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展示されている住宅はどれも必要最小限の家具しか置いていないので、和室の良さを活かした生活が復元されているが、このようなシンプルな生活はそう長くは続けられなかったと思われる。押入などの収納場所に余裕があれば、それなりに対処できたと思うが、昭和30年代の集合住宅は収納面積が延べ床面積の数パーセントしか確保されておらず、現在一般的に必要最低限とされている10%にも程遠い。実際の生活では時と共に所有物が増え、床にカーペットを敷いて洋室化するなど、展示されている間取りとは違い、固定家具に囲まれた生活をしていた様子が想像できる。
建築雑誌『住宅建築』に解体される前の代官山アパート(1996年10月号)、晴海高層アパート(1996年8月号)と多摩平団地テラスハウス(1997年2月号)の記録をまとめた興味深い記事が載っている。住まい手のインタビューや集合住宅内部の写真が紹介されていてたが、長年住み慣れた場所や環境、そして近隣のコミュニティー対にする愛着がうかがえ、狭いという物理的な不満よりもそれなりに住み心地の良い所だったようだ。
多摩平団地テラスハウスは現在同じ場所で建て替え中だが、どのような集合住宅ができるのか楽しみである。 |
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今回は時間の都合で集合住宅歴史館のみの見学となったが、その他にも「KSI住宅実験棟」、「環境共生実験ヤード」、「地震防災館」、「すまいと環境館」、「居住性能館」などの様々な住宅関連研究施設が公開されている。事前に申しこめば、誰でも見学ができるので、これから公団住宅に入居予定の方、マンションを購入あるいは住宅を新築しようと計画中の方は是非一度訪れていただきたい。展示の間取りは実際に中に入ることができるので、立って部屋を見学するだけでなく、畳に腰を下ろして生活者の視点で部屋の中を見渡してほしい。座ることによって、狭いと思っていた部屋が案外広く感じるはずである。立っている時には気が付かなかった「和室」の空間を楽しんでいただければ幸いである。 |
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「和室」再考 |
住宅の設計をしていると「和室」をどのように造るべきか悩むことが多い。一部屋くらい「和室」があったほうがいいという要望に素直に答えると、その「和室」は客間的な存在として日常的にはほとんど使われることなく、気が付くと納戸化しているのが通例である。伝統的な和風住宅のように続き間に床の間や書院を付けたりすれば、それはそれで一つの解として成り立つのだが、一般の住宅ではそのような広間を確保するのはなかなか難しい。住宅における「和室」のあり方を集合住宅歴史館を通して探ってみたい。
見学した4つの集合住宅の間取りを見ていくと、いずれも個室は畳敷きとなっていた。天井の高さは2.2m〜2.3mと現在の標準の2.4mよりもやや低めで、窓の高さは床から約40cmと低い位置から開口されている(写真右)。畳に座ってみると、視点が下がるものの窓が視界からそれることはなく、開放感が増す。40cmの窓の高さは、座の生活様式を想定した高さだということが読みとれる。
公団の集合住宅は時代の標準仕様(先取りしていると言っても過言ではない)と捉えることができるので、当時の一般的な住宅でも当時は主な居室は和室だったと考えても差し支えないだろう。しかしながら、ここ半世紀で「畳座」から「椅子座」に生活様式が変化し、間取りも洋間(フローリングの部屋)主体の住宅へと変わっていった。最近の住宅では和室のない家も珍しくない。
蓮根団地の紹介でも記述したが、現在の住宅の間取りは公営住宅51C型の流れから「nDK」と表記されることが多い。この「n」が個室の数を示すことは読者の皆さんもご存知だと思うが、似たような表記で「L+nB」とう表現もあり、ここでは「L」がリビングで、「B」が寝室を表す。後者の方がより寝室としての個室というイメージが強く、「n+1」が家族の構成人数を表すとされている。しかしながら昨今の動向では、夫婦であっても別室で寝たり、個室であっても完全に閉じた空間としないなど、様々な住まい方に応じた間取りが求められるようになり、「nDK」では表現しきれない状態となっている。
ここで気になるのが「n」で数えられる「個室」の概念である。「nDK」と表記するためには部屋を独立した個室と考える必要がある。本来、畳敷きの間は部屋の境界が襖や障子であることが多く、隣接した空間への広がりがあった(右図上)。間仕切りを開閉することで個室にも広間にもできたが、「n」に組み込まれることで畳の部屋は広がりを失っていった(右図下)。
また「n」として個室化された部屋でも「和室」にするか「洋室」にするのかは単なる床の材質の違いだけではなく、「畳座」か「椅子座」という生活の違いがあったはずだが、「n」で数える限り同質の部屋となり、起居様式は問われない。「椅子座」にした場合は、テーブルや机、ベッドなどの家具類が発生するのに対し、「畳座」の場合は家具は置いてもちゃぶ台のように移動できる家具程度で、多用途に機能した。固定家具が増える「洋間」は「和室」よりも必然的に広い部屋が必要となるだけでなく、生活の行為ごとの部屋数が必要とされる。つまり狭い住宅の「和室」を洋間化することは、使い方を限定するだけでなく、より狭く感じる部屋を増やすことに繋がる。
どうも「n」や「B」に当てはめられた「和室」という言葉自体に、畳の間が持っていたような広がりや多様性は既に排除されており、「畳が敷いてある特定の用途の個室」という意味合いがあるような気がする。「nDK」は畳の間を個室化させた「和室」を生み出し、そして時代が「畳座」から「椅子座」へと変化していく過程で広さ的にも対応しきれなくなったと考えることができる。 |

隣接する「畳敷きの間」

隣接する「和室」
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そして現在は「nDK」という間取り自体が生活の一般解ではなくなってきている。「nDK」が戦後の住宅不足を解消するために登場した間取りであることを思えば、戦後60年も経た現在ではそれに当てはまらない住まい方があるのも当然のことかもしれない。「nDK」の普及と共に「和室」は消滅していったが、「nDK」の崩壊は逆に「畳敷きの間」の復活に向かっている。「洋室」と「和室」という個室を前提とした概念を超えたところで、「椅子座」に対する「畳座」の場所として本来の多様性を発揮している。やはり、床に直接座る生活は我々日本人には捨てがたい習慣なのだろう。家族の集う場所に畳コーナーとして畳を敷くケースが増えているが、これもその一例と言えよう。
最後に「和室」と「洋室」では窓廻りにも大きな違いがあったことも述べておきたい。窓の床からの高さの差違は既に述べたが、カーテンと障子という窓の内側の表現の違いも無視できない。多摩平団地の腰窓の障子や欄間の障子は実によく考えられていて、これはカーテンでは代替できない障子ならではの使い方である(写真左)。一般的に「和室」には障子、「洋室」にはカーテンという構図が出来上がってしまっているが、和風住宅の板の間に障子があったように、フローリングと障子という組み合わせも決しておかしくない。
モダニズム建築の傑作の一つと言われている前川國男の自邸(昭和16年)が江戸東京たてもの園(小金井公園)に移築・公開されているが、ここでは洋間の窓にも障子が使われている。「障子」=「和」というデザイン面だけでなく、保温性や遮音性、透光性等の機能面で障子の性能を評価した使い方だ。
「和室」からの解放によって、本来日本の住宅の持っていた長所を適材適所に取り入れることが可能になるだろう。
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【参考文献】
・『まちとすまいづくりの技術』〜技術センターの技術開発・研究集〜 編:都市機構
・『図説・近代日本住宅史』 内田青蔵+大川三雄+藤谷陽悦 :鹿島出版会
・『住宅建築』1996年8月号、1996年10月号、1997年2月号 :建築思潮研究所
・『江戸東京たてもの園展示解説シート』 発行:東京都歴史文化財団
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