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〜〜日野駅舎〜〜民家風デザインの謎

 日野駅を降りると、「ただいま」と言ってしまいたくなるような懐かしい気持ちになる。そう、日野駅はどこか遠い田舎の駅に来たのではないかと勘違いしてしまうほど、牧歌的な佇まいをしているのだ。今回はこの民家風駅舎の謎を紐解いてみたいと思う。

下屋
 
面皮柱

 入母屋屋根の民家風駅舎は昭和12年に竣工した。駅舎設計に関する当時の記録には以下のように述べられている。『家という形というものは決して偶然や或いは空想から生まれるものではなく、その土地の気温、湿度、緯度、材料、風俗等から、自然にきめられてくるものでありますから、ある国、ある地方の建築様式を見るには、先ずそこの土地の田舎家を調べるのが一番直接的な途なのであります。日野、豊田付近は充分に近代都会的文化の影響を受けている所とはいえ、尚昔ながらの関東平野からの自然発生的風景習俗を保っている所でありまして、従って此所に建てられるべき最もふさわしい家はやはり関東民家の雅味を持ったものと考えられます。日野、豊田駅を田舎家風に設計した所以であります。』(鉄道路線変遷史探訪・)。

 つまり、日野駅舎は昭和初期の日野の原風景をデザインして建てられたということになる。現在ならば公共的な建物を設計するときにその土地のデザインコードを読みとる作業は一般的に行われることであるが、昭和の初期に既にこのような考え方で設計を進めていたのは驚きだ。

 実際の駅舎を見てみよう。屋根は入母屋の大屋根の下に巾1間の下屋(庇)を廻した形になっていて、民家風と言えども野暮ったい感じはなく、軽やかにまとまっている。平面形はだいたい6間半×4間半の上に上屋が乗っているようなので、標準的な民家の大きさだ。北東の立川寄りの2間半の部分が民家で言えば土間に当たる場所だが、ここでは券売、改札口となっている。民家の平面形がそのままぴったり当てはまるので、近隣の民家を移築したのではないかと思ってしまうほどである。

 さて、民家風と言われる日野駅だが、民家にはあまり見られない手法もある。上屋を支える柱に面皮柱(注)を採用しているところだ。面皮柱は一般的に数寄屋建築に用いられる柱で、民家に使われることはあまりない。意図的に面皮柱を使ったのか?それとも、予算がなくて小断面の丸太しか用意できず、結果として面皮になってしまったのか……。ここでは、素直に前者の推理で進めることにしよう。

 

「鉄道路線変遷史探訪・」には残念ながら日野駅舎の設計者の名前は明記されていないが、国鉄の建築技術者で後の日本建築学会長を歴任した伊藤滋氏によって設計された説が濃厚であるとしている。他の資料を見ても根拠こそは書かれていないが、やはり設計者の欄に伊藤滋の名前が出てくるので、設計者を伊藤滋だとしてデザインの謎を解いてみたいと思う。

交通博物館

 伊藤滋(1898年〜1971年)が国鉄の技術者であったことは先に述べたが、日野駅を設計する前の彼の作品を少し見てみたい。昭和7年国鉄御茶ノ水駅舎、昭和11年交通博物館、いずれも後に改修されている建物ではあるが、平成の現在も見ることのできる彼の佳作である。この2つの建物に共通する点は、分離派(注)の影響を受けて交通建築の持つ機能性を平面的にも意匠的にも処理して設計されていることである。もちろん鉄・コンクリート・ガラスという近代建築材料を駆使した建物だ。特に御茶ノ水駅舎は駅舎建築のその後の指標となった建築と言われている。御茶ノ水駅舎を造るにあたって次のように伊藤滋は述べている。『停車場建築は内部に停滞居住するものではなく、むしろ道路の一部であるという所にその特徴がある。……単純と秩序と迅速の観念の上に設計されるべきである。』(鉄道路線変遷史探訪・)。

御茶ノ水駅舎

 御茶ノ水駅が竣工してから日野駅ができるまでにわずか5年、同じ用途の建物を設計するのに考え方がかなり変化しているのが読みとれる。御茶ノ水周辺にも自然発生的風景習俗があったはずだし、日野駅にも駅としての機能を持たせないといけなかったはず。モダニズム建築を謳歌していた時期に何故、民家風駅舎となったのか?謎が深まるばかりだが、この5年という歳月の中で彼の設計思想を変える何かがあったと思われる。

 この時期にドイツから来日した一人の建築家がいる。ブルーノ・タウト(1880年〜1938年)だ。ブルーノ・タウトは桂離宮の中に、つまり日本の伝統建築の中に装飾性を排除した機能美が存在していることを外国人の目で論じたことで有名である。彼が昭和9年に最初に著した日本見聞録『ニッポン』の中では桂離宮の素晴らしさを賛美すると共に、表面だけをなぞったような日本の西欧様式建築を酷評している。しかしながら純粋に機能性を追求した日本の近代建築には、エールを送っているのである。タウトの認めた日本の近代建築として最初に名前が挙がるのが、実は伊藤滋設計の御茶ノ水駅舎なのである。伊藤滋とタウトが面識があったかどうかは判らないが、『ニッポン』を通して接点があったとするのは妥当であろう。

 話を日野駅の戻そう。伊藤滋が駅舎をモダニズム建築にしなかったのは、上述の彼の持論を組み立てるに当たって、少なからずタウトの影響があったのではないかと僕は思っている。つまり日野周辺地域での伝統建築美は民家にあると捉え、駅舎に応用した。次に駅舎の上屋を支える面皮柱についてだが、駅舎のプロポーション、平面形式があまりにも民家そのものになってしまったので、柱に数寄屋の要素を取り入れて遊んだのでは?タウトの桂離宮論に呼応したのではないだろうか……。

「日野駅の 民家のかげに タウトあり」 
 ちょっと強引かな?

 

取材協力:JR東日本日野駅長 横田 夏夫氏
参考文献:鉄道路線変遷史探訪・ 守田久盛・大八木正夫・福田光雄 吉井書店
     駅のスケッチ 森惣介 彰國社
     ニッポン ブルーノ・タウト 平居均訳 明治書房
     民家建築大事典 日本建築民族学会編 柏書房
注)
・面皮柱 柱の四隅に丸太の皮が付いている角柱
・分離派 過去の建築圏より分離し、新建築圏を創造するという動き。1920年に堀口捨巳らによって始まった。ドイツのセセッションの影響を受けている。

 

 

 
 
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