「鉄道路線変遷史探訪・」には残念ながら日野駅舎の設計者の名前は明記されていないが、国鉄の建築技術者で後の日本建築学会長を歴任した伊藤滋氏によって設計された説が濃厚であるとしている。他の資料を見ても根拠こそは書かれていないが、やはり設計者の欄に伊藤滋の名前が出てくるので、設計者を伊藤滋だとしてデザインの謎を解いてみたいと思う。
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| 交通博物館 |
伊藤滋(1898年〜1971年)が国鉄の技術者であったことは先に述べたが、日野駅を設計する前の彼の作品を少し見てみたい。昭和7年国鉄御茶ノ水駅舎、昭和11年交通博物館、いずれも後に改修されている建物ではあるが、平成の現在も見ることのできる彼の佳作である。この2つの建物に共通する点は、分離派(注)の影響を受けて交通建築の持つ機能性を平面的にも意匠的にも処理して設計されていることである。もちろん鉄・コンクリート・ガラスという近代建築材料を駆使した建物だ。特に御茶ノ水駅舎は駅舎建築のその後の指標となった建築と言われている。御茶ノ水駅舎を造るにあたって次のように伊藤滋は述べている。『停車場建築は内部に停滞居住するものではなく、むしろ道路の一部であるという所にその特徴がある。……単純と秩序と迅速の観念の上に設計されるべきである。』(鉄道路線変遷史探訪・)。
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| 御茶ノ水駅舎 |
御茶ノ水駅が竣工してから日野駅ができるまでにわずか5年、同じ用途の建物を設計するのに考え方がかなり変化しているのが読みとれる。御茶ノ水周辺にも自然発生的風景習俗があったはずだし、日野駅にも駅としての機能を持たせないといけなかったはず。モダニズム建築を謳歌していた時期に何故、民家風駅舎となったのか?謎が深まるばかりだが、この5年という歳月の中で彼の設計思想を変える何かがあったと思われる。
この時期にドイツから来日した一人の建築家がいる。ブルーノ・タウト(1880年〜1938年)だ。ブルーノ・タウトは桂離宮の中に、つまり日本の伝統建築の中に装飾性を排除した機能美が存在していることを外国人の目で論じたことで有名である。彼が昭和9年に最初に著した日本見聞録『ニッポン』の中では桂離宮の素晴らしさを賛美すると共に、表面だけをなぞったような日本の西欧様式建築を酷評している。しかしながら純粋に機能性を追求した日本の近代建築には、エールを送っているのである。タウトの認めた日本の近代建築として最初に名前が挙がるのが、実は伊藤滋設計の御茶ノ水駅舎なのである。伊藤滋とタウトが面識があったかどうかは判らないが、『ニッポン』を通して接点があったとするのは妥当であろう。
話を日野駅の戻そう。伊藤滋が駅舎をモダニズム建築にしなかったのは、上述の彼の持論を組み立てるに当たって、少なからずタウトの影響があったのではないかと僕は思っている。つまり日野周辺地域での伝統建築美は民家にあると捉え、駅舎に応用した。次に駅舎の上屋を支える面皮柱についてだが、駅舎のプロポーション、平面形式があまりにも民家そのものになってしまったので、柱に数寄屋の要素を取り入れて遊んだのでは?タウトの桂離宮論に呼応したのではないだろうか……。
「日野駅の 民家のかげに タウトあり」
ちょっと強引かな? |